「教えが身につく」
昔から「仏法(仏さまの教え)は身につかなければならない」と言われてきました。
「身につく」とは「身体で覚える」ということですが、仏さまの教えは自分の行いや生活の上に表れてこなければ、いくら学んでも意味がないということです。
ただ単に、頭で分かったというだけでは、ダメなのです。
そこが一般の学問と違うところだと思います。
一般の学問では頭で分かればそれで事足りるのですが、仏さまの教えは、身体で覚えなければ何の値打ちもないのです。
「頭で分かる」という事と「身体で覚える」という事は違うのです。
それは例えば、車の運転ということを考えてみれば、よく分かると思います。
まったく運転のできない人でも、これがブレーキ、これがアクセル、こうすれば前に進む、こうすれば止まる、といったような説明を聞けば、運転の仕方はすぐに理解できると思います。
ところが、運転の仕方が分かったからといって、ただちに運転ができるのかというと、そうはいきません。
それは身体で覚えていないからです。
身体で覚えていない状態のことを「身についていない」と言うのです。
そこで、運転を身につけるためにどうするかというと、何度も何度も練習を重ね、一つ一つ体で覚えていくということが必要になってくるのです。また。これ以外、身につける方法はありません。
仏さまの教えもこれと同じことなのです。
教えが身につくために何度も何度も、繰り返し繰り返し、聞かせてもらうという事が大事になってくるのです。
教えが身につけば、それは必ず自分の行いや生活の上に表れてきます。
仏教には「信火行煙」という言葉があります。
これは、信心の火がともれば、必ず行という煙が上がるという意味ですが、「教えが身につけば(信)、それが生活の上で実践(行)されるものだ」ということなのです。
このように仏教では「教えが身につく」ということが最も大事なこととされています。
そして教えを身につけるために、今一つ大事なことがあります。
それは「自分自身のこととして聞いていく」ということです。
そんなことを教えてくれるお話が中国にあります。
四世紀の初め、中国の唐の時代に道林という、お坊さんがいました。
いつも樹の上で座禅を組み、仏道修業に励んでいましたので、いつしか人々は彼のことを樹の上の修行僧一鳥窩禅師一と、尊敬の念を込めて呼ぶようになりました。
そんなある日、その評判を聞きつけた時の地方長官、白楽天がその様子を見に訪ねて来たのです。
いつものように樹の上で座禅瞑想している鳥窩禅師に向かって、白楽天が「仏教というものを修業しているそうだが、どんなものか教えてくれぬか」と尋ねたのです。
すると、鳥窩禅師は「悪いことをやめ、善いことを行い、自ら心を清くしなさい。これが仏教の教えです」と答えたのです。
この時に答えた言葉は『七仏通誠偶』というお経に出てくる「諸悪莫作、衆善奉行、自浄其意、是諸仏教」という有名な言葉です。
それを聞いた白楽天は、いかにもがっかりした様子で「そのようなことなら、仏教に教えられなくても、六才の子供でも知っていることだ」と言い捨てたのです。
この言葉に鳥窩禅師は、大きくため息をついて「六才の童子知るとも、六十の翁行い難し」と答えたのです。
「幼い子供でも分かるようなことが、六十の老人になっても実行できないではないか」と厳しく諭したのです。
「頭で分かっただけでは何の役にも立たん。自分自身が問題にならなければダメだ」と言っているのです。
白楽天はこの言葉に目を覚まし、それからは真剣に仏教を学んだと言われています。
この逸話は「仏さまの教えはどのように聞くべきか」ということを私たちに示唆して余りあるものがあります。
よく、お寺での法話会の後「今日のお話は良かった。こんな話なら家の主人に聞かせれば良かった」、「ホント、ホント、家の姑にも聞かせたかった」と言うような会話を聞くことがあります。
これでは、いくらお話を聞いても、教えは身につきません。
自分自身が問題にならなければ、それは単に、知識として覚えただけで、何の役にも立ちません。
自分自身が問題になる。これからも、そういう心構えで、繰り返し繰り返し教えを聞かせてもらいたいものです。
お念仏のみ教えが身についた方を親愛聖人は「染香人のその身には、香気あるがごとくなり、これすなわち名づけてぞ、香光荘厳と申すなり」と歌っておられます。
意訳すると、「お念仏の香りに染まった人の身体からは、香ばしい気配がたちこめているようだ。こんな人のことを阿弥陀さまの芳しい智慧の光で飾られた人と言うのである」ということであります。
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