「生き返ったおじいさん」
私たち人間は、さまざまな経験を通して生きる智恵というものを身に付けます。
その智恵は、仏教では分別智と呼ばれ、善悪、正邪、美醜、強弱といったように、あらゆるものをより分け、分類する智恵です。
この智恵は、私たちの生活にとって確かに必要なものです。
もし善悪の区別が出来ないようであれば、社会生活は送れません。
ところが、この分別智は一方ではより分ける側の都合によって変わってくるという一面があります。
例えば善悪ということを考えてみますと、戦時中であれば敵を沢山殺すことは善ですが、平和な時に人を殺せばそれは犯罪ですから悪になります。
或いは、消費は美徳と言われる時もあれば反対に、消費は敵だと言われる時もあるのです。
そんなより分け方の中には「役に立つか、役に立たないか」という分け方もあります。
当然そこでは、役に立つものは大事にされるが、役に立たないものは捨てられるということが起こってきます。
それは例えば、同じ虫の仲間でも役に立つ虫は益虫、役に立たない虫は害虫というふうに、より分け方をして、益虫は保護されますが、害虫は駆除されるようなものです。
それが、虫だけの話であればいいのですが、人間の「いのち」までも「役に立つか、立たないか」というより分けをしてしまうのです。
以前、藤田徹文先生から、次のようなお話を聞いたことがあります。
ずいぶん昔の田舎での出来事です。
何年も寝たきりのおじいさんが亡くなり、お葬式が勤められました。
田舎のことですから、お葬式が済むと、お棺を担いで、行列を作って野辺の送りをするのですが、行列をする前に担いだお棺をいったん庭先に出して、そこでグルグル回し始めたのです。
なぜ回すのかといいますと、死んだおじいさんが.1度とこの家に戻ってこないよう目を回してから、連れて行くんだそうです。
私も近年、ある町でのお葬式を勤めた後、このような光景に出会ったことがありますが、人間というものは賢そうな、偉そうなことを言っておっても、随分つまらんことをしておるのです。
こうして、庭先でお棺を回し始めたのですが、4人で担いで回すのですから中々うまくいきません。
二人三脚でも難しいのに、4人ですから足並みが揃いにくいのは当然です。
しかもリハーサルなしの、ぶっつけ本番です。
回している最中に、中の一人が何かにつまずいたのです。
一人がつまずくと、全員がフラフラとふらつき、とうとう庭先の大きな木にそのお棺をぶつけたのです。
かなりな衝撃だったのでしょう、、ぶつけたとたん中から「ウーン」といううなり声が聞こえたのです。
びっくりしてお棺を開けてみると、なんと死んだはずのおじいさんが目を開けていたのです。
今では考えられない話ですが、昔のことですからこんなこともあったのでしょう。
家族の人たちは、あわてて座敷に布団を敷き、おじいさんを寝かせ、「おじいちゃんはこの通り元気ですから」と話して皆さんに帰ってもらったのです。
ところが、仮死状態で生き返ったおじいさんですから、そう長くは生きられません。
それから十日ほど経った時に、また死んだのです。
また死んだというのは、おかしな言い方ですが、まあ今度は本当に亡くなったのです。
一度葬式を出したからといって、放っておくことも出来ず、またお葬式を出したのです。
ところが、お葬式がすむと、またまた性懲りもなく、お棺をかついで回し始めたのです。
お棺が回り始めた時です、長年連れ添ってきたおばあさんが、大きな声で「みなさん、今度は木にぶつけないようにしてくださいね」と言われたそうです。
以上のような、笑い話のような話ですが、人間の気持ちというものを本当に良く表した話だと思います。
おそらく、このおじいさんも、元気で働いている頃は、家族の人から「おってくれーおってくれー」言われていたと思います。
ところが年をとり、稼ぎもなくなり、その上寝たきりになってしまうと、ついには「生き返らなくても良い」とまで言われてしまうのです。
役に立つ間は大事にするが、役に立たなくなると邪魔になるのです。
このように、私たちの分別智は、人の「いのち」さえも役に立つか立たないかと、より分けてしまうのですが、それはすべてより分ける側の都合にかかっているのです。
そんな私たちのありように対して
「それは違っていますよ。役に立ついのち、役に立たないいのち、などというものはありません。いのちは、みんな平等ですよ。そのことに早く目覚めてくださいね」
と、呼び続けている声が、南無阿弥陀仏なのです。
この、あらゆるいのちを平等に見る仏さまの智慧を無分別智と言います。
それは分別しない、より分けしないという智慧です。決して仏さまの都合でより分けたりはしないのです。
その仏さまの智慧に照らし出されるとき、
「そうだった、そうだった。我が人生に捨て去るものなど何ひとつもなかったのだ。すべてなくてはならないものばかりだった」
と、いうことに気づかされるのです。
それが「信心の智慧、智慧の念仏」と呼ばれるゆえんなのです。
より分ける智恵しか持ち合わせていない私たちに、お念仏のみ教えは、より分けない人生の大切さを私たちに教えてくださるのです。
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