「雨の日も風の日も −年頭に寄せて−」
新年明けましておめでとうございます。
今年のお正月も全国の神社仏閣では八千万人を超す初詣で賑いました。
元旦のテレビでは、初詣を終えた人に「今年は神様に何をお願いしましたか?」と尋ねるシーンが映し出されていました。
聞いてみますと、毎年同じような答が返ってきます。
「家族がこの一年健康でありますように……」
「今年こそは商売が繁盛しますように……」
「目指す大学に合格しますように……」
といったようなところでした。
尋ねる方も答える方も、神社仏閣は自分の願いをかなえてもらうためにお参りするところと思っているようです。
もっとも、お願いをする方も一日限りの信者ですから、そうそう神様や仏さまを当てにしている風でもなさそうで、願い事が聞き入れられなかったといって、詐欺罪で訴えたとい
う話は、これまで聞いたことがありません。
確かに、初詣は、「お正月だから……」「皆がしているから……」という、ごく軽い気持ちで出かけているのだと思いますが、やはりこの初詣風景を見ていますと考えさせられます。
というのも、つい一週間ほど前には、クリスチャンでもないのに、クリスマスツリーを飾り、クリスマスのお祝いした者が、今度はお正月だからといって、にわか信者になって、
神仏の前で神妙に手を合わせて虫のいいお願いをする。
しかもそんなことに何ら矛盾を感じない。
また、そんな(宗教に無節操な)人間に迎合するように、「あなたの願い事をかなえてあげましょう」という神社仏閣が実にたくさん存在している。
「これは一体全体どうなっているんだ!」と首をかしげずにはおれません。
年末には、新聞やテレビで「こうこういうご利益があります。初詣に出かけましょう」と大々的に宣伝する神社仏閣がありました。
特に、初詣のお寒銭だけで年間の運営費を稼いで(?)しまうような有名な神社仏閣にとれば、PRに余念がないのは分かりますが、これでは本来の宗教とは全くかけ離れたものになっています。
残念ながら、「神社仏閣は願い事をかなえてもらうところ」と思っている人がいる限り、こうしたご利益宗教がなくなることはありません。
しかし、人間生きていれば、晴れの日もあれば雨や風の日もあり、嵐に出会うことだっ
あるのです。
願い事をかなえて下さいというのは、雨や嵐の日をなくして晴れの日だけにして下さいということと同じです。
ところがよく考えてみて下さい。
たとえ願い事が一つ満たされても、すなわち晴れた日がたまたまやってきたとしても、必ずまた雨の日や風の日がやってきます。
一つ問題が解決したと思えばまた一つ問題が起こる。それが私たちの人生です。
ですから、目先の晴れの日だけを願って、一喜一憂するような人生からは、決して真の安らぎは生まれきません。
それより何より、そんな人間の都合の良い願いをかなえてくれる神さまや仏さまなどはいらっしゃいません。
そうしますと、雨の日や嵐の日をなくして下さいと神仏にお願いするよりも、雨の日であ
っても嵐の日であっても、それを受け入れて、そこから道く立ち上がっていく生き方を身に付ける方がよっぽど理にかなっています。
そうして、そのような生きる智慧というものを与えて下さる宗教が本当の宗教なのです。
親鸞聖人は、「仏さまにこちらの願いを聞いてもらおうとするのではなく、私の方が仏さまのお心(願い)を頂いて生きなさい」とおっしやっています。
これは、ご利益宗教と呼ばれるものと、全く逆の考え方であることが分かると思います。
南無阿弥陀仏は「晴れの日でも雨の日でも、あなたのことは必ず護ります。何があっても
大丈夫ですから、私を支えにして、与えられた命を粗末にせず、この人生を精一杯歩みなさい」という阿弥陀さまの呼び声です。
親鸞聖人は、「その呼び声に込められた阿弥陀さまのお心(願い)を頂くのですよ」とおっしゃっているのです。
そのお心(願い)を頂けば、目先の幸不幸に惑わされ、晴れの日だけを追い求めようとする我が心の浅ましさが自ずと知らされます。
そうして、「どんな日が来てもかまいません」と道しく立ち上がっていく人生の智慧が恵まれるのです。
浄土真宗の僧侶であり教育者でもあった東井義雄先生は、
「雨がふってもブツブツ言うまい。雨の日には雨の日の生き方がある」とおっしゃっています。
雨の日があれば、「雨のおかげでこんな良い一日にしていただきました」と、しっかりと雨の日を受け入れ、そこに大きな恵みを見出しておられることがよく分かります。
まさに、真実の宗教に出道った方の人生の豊かさというものを窺い知ることが出来ます。
年頭に当たり、この一年もまた阿弥陀さまのお心(願い)を頂き、雨の日も風の日も、阿弥陀さまと共に歩ませて頂きたいと思っています。
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