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「今を生きる」H20・12放送
私のお寺では、ほぼ二ヶ月に一度「法座(法話会)」を開いています。
一人でも多くの方にお念仏のみ教えを喜んで頂きたいという思いから、事あるごとに、「今度、お寺で法座がありますから是非お参りして下さい」と呼びかけています。
すると、「そのうちお参りしますから……」、「そのうち聞かせてもらいますから……」と、「そのうち、そのうち……」と、よく言われます。
「そのうち、そのうち……」というのは、結局その気がないということだと思います。
例えば、「今度、駅前のスーパーで大安売りがあるそうよ」と言われて、「あそう、そのうち、そのうち」と言うでしょうか。
そうは言わないでしょう。
「え!本当。いつですか?」と、まず日を聞くと思います。
それと同じことで、もしお寺にお参りする気があるのなら、「お寺で法座があります。お参りしてください」と、こう言われたら「いつですか?」と、まず日を聞くと思います。
このように、私たちは何かにつけて「そのうち、そのうち……」ということをよく言います。
ところで、私たちが「生きる」という事はどういうことでしょうか。
それは、「今」という「とき」を大切にするということです。
たとえ私たちが90年、100年生き得たとしても、私が生きるのは、いつでも「今」です。
ですから、「今」をおろそかにしておったのでは、生きているとは言えません。
まさに、私たちが生きられるのは「今」なのです。
その過ぎ去ったところを「昨日」と言い、まだ来ぬところを「明日」と呼んでいるだけなのです。
私たちに与えられている時間は「今」しかありません。
当たり前といえば至極当たり前のことですが、その当たり前のことが中々実行出来ていないのが私たちお互いではないでしょうか。
例えば、今やっていることがしんどくなると、「早く終わればいいのになぁ」とついつい「今」を放棄することがよくあります。
或いは、今が面白くないと、「昔はよかった。あの時は楽しかった」と過去の思い出の中に逃げてしまうことがあります。
或いはまた、今も昔も面白くなかったら、「まぁー、そのうち楽しいこともあるだろう」と、未来に淡い期待を抱いて、「今」を生きていないということがよくあります。
もちろん、過去を懐かしむことや明日への希望を持つということがいけないと言っているのではありません。
ただ、過去を懐かしむのは「今」をよりよく生きるためであり、明日への希望を持つのも「今」を大切に生きていくということから生まれてくると思うのです。
宗祖親鸞聖人は、そのご生涯を通して最も戒められたのは「空過」ということでした。
「空過」とは、かけがえのない一日一日を無駄に過ごしてしまう生き方です。
「そのうち、そのうち……」という生き方はまさしく「空過の人生」です。
その「空過」の反対を「勝過」と言います。
「勝過」とは言うまでもなく、与えられた一日一日を精一杯生きるという生き方です。
「勝過の人生」と「空過の人生」、その違いは一つしかありません。
それは「今日のことを今日する」か「今日のことを明日に延ばすか」、ただそれだけのことです。
その一日一日の積み重ねが、やがて勝過と空過の人生に大きく分かれてしまうのです。
親鸞聖人にこんな逸話があります。
聖人九歳の時のことです。
叔父に連れられ出家得度の儀式をお願いするために、慈鎮和尚のもとを訪ねられました。
ところが余りにも夜遅く訪ねられたために、慈鎮和尚は「今夜はもう遅いから、出家得度の儀式は明日にしてはどうか」と聖人に言われたのです。
すると聖人は、その申し出に対して、次の歌を以って答えられたと言われています。
明日ありと
思ふ心のあだ桜
夜半に嵐の吹かぬものかは
この古歌は元々、人の世の無常を詠ったものと言われています。
歌の意味から判断しますと、「明日の命も知れぬ我が身なればこそ、なにとぞ今宵、得度の儀式をお願いしたいのです」ということであります。
しかし「空過」ということを厳しく戒められた聖人の生き方を思う時、ただ無常観だけでこの歌を引用されたのではないと思います。
「今宵お尋ねしましたのは得度の儀式を受けさせて頂きたかったからでございます。いかに夜が更けましょうと、もし、このまま何もせず帰ってしまったのでは、今宵のことが無駄になります。私にはこのひと時こそ、ただ今こそを大事にしたいのです」
おそらく聖人はこのようなお気持ちではなかったのかと思うのです。
まさに生きるとは、「今、今、今……」なのです。
再び戻らぬこの一日を、このひと時を、大切に生きていきたいものです。
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