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私が私になる―自己成就の道― H22.12 入江一宏
元神戸大学の教授であられた塩尻公明先生は、ご自身の著書『自と他の問題』の中で、篤信の念仏者であったお母さん(塩尻うめ)のことを次のようにおっしゃっています。
(中略)母の手紙の中に最も頻繁に現れている考え方は、起こり来たった一切の事件を、すべて意味のあるものとして肯定しようとすること、および起こり来たらんとする一切の苦痛悲哀不幸とを、すべて真正面から受け取ろうとすること、の二つである。母においては、すべてがよかったという感触と、すべてを受け取ろうとする心構えとは密接に結びついているようである。
(中略)自分は今年になって、母の手紙のすべてを読み返してみた時、そこに現れている最も反復的は思想が「すべてがよかった、すべてを受け取る」という思想であることを初めてはっきりと確かめることが出来て、実は驚いたのであった。
ここで語られている「すべてがよかった、すべてを受け取る」ということが念仏者の人生観の大きな特色です。
北海道の真宗寺院の坊守(住職の妻)さんで、ガンのため47歳で亡くなられた鈴木章子さんは次のように語っています。
お念仏の信心を
いただくとは
逃げたり 頼ったり
することではなく
納得して
現状(ありのまま)をいただく身に
育てられることです
いかなる時にも、そこから逃げるのではなく、言い訳するのではなく、なっていることをいただいていく、しかも喜んで、納得していただいていく、と彼女は言っているのですが、これは「すべてがよかった、すべてを受け取る」ということと同じことです。
なぜ念仏者にそのようなことができるのかと言いますと、念仏者は「私の人生におけるすべての出来事は、私の心の目を開かそうとする阿弥陀さまの大悲心の表われ(善巧方便)なんだ」と、いただいていくからです。
そこには、阿弥陀さまへの絶対の信頼があります。
この「すべてを受け取る」ということを仏教では「宿業を引き受ける」と言います。
そうして大事なことは、「宿業を引き受ける(すべてを受け取る)」ことによって、初めて「私が私になる」ということです。つまり、私が私として完成(自己成就)するのです。
実は、お念仏は、このように「私が私になる(自己成就)」道を説いているのです。
をさはるみ、という方が「ひとりごと」と題した次のような詩を作っておられます。
私が私になるために
人生の失敗も必要でした
無駄な苦心も 骨折りも 悲しみも
みんな 必要でした
私が私になれた今
すべて あなたのおかけです
恩人たちに手を合わせ
ありがとうございますと
ひとりごと
「私が私になるため」に、あの時の苦しみも、あの時の悲しみも、何もかも必要だったと詩の作者は言っているのですが、まさしくこれはお念仏の教えに出遭った人の詩だと思います。
こうして「私が私になる(自己成就)」ことによって、「私は私でよかったなぁ」と、心の底からうなづくことができます。それはまた、他と比較する必要がなくなったということを意味します。
この他と比較しないという人生ほど私の心に安らぎを与えるものはありません。
その深い満足感を前述の鈴木章子さんは、次のような詩にしています。
満足
今までは比較の満足
私よりも若く逝った
まあまあ私も仕方ない
あの方は 子を亡くした
私は子に先立たれる不幸にあわなかったと……
今は比較なし
ただ ただ
お念仏いただく身に
お育ていただいていたのが
嬉しく
満足
思えば、お念仏に生きる人は、自らの人生に起きる一切の出来事は「すべてがよかった、すべてを受け取る」という人生を歩んできました。それが、かくも安らかな人生を招来するのです。
逆に言えば、
「何でこんな苦労せないかんのや」
「何でこんな病気になったんや」
「何でこんな家に生まれたんや」
と、自らの境遇(宿業)を引き受けようとしない限り、どこまでいっても安らかな人生は訪れないということになります。
相田みつをさんの詩に、
この世は私が私になるところ
あなたがあなたになるところ
とありますが、まことにその通りだと思います。
私が私になるために、あなたがあなたになるために、何よりもまずお念仏のみ教えに謙虚に耳を傾けていきたいものです。
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